2008年11月18日火曜日

おことわり

今月末発行予定でした「肱川」は、編者の都合で来年春の発行となりました。
大幅な予定の変更、お許しください。

さて肱川漁協の楠崎さんのお話を最後まで読みたいかたは、是非、本が出来上がったら買ってください。よろしくお願いします。



京都の街は晩秋から冬に向かっています。紅葉の綺麗な頃になりました。是非、お出かけください。

2008年11月10日月曜日

「肱川」一部紹介②

大洲で国交省が来て委員会をひらいた。市長も市会議員も来よった。その時の議長が愛大の先生やった。ほんに立て板にみずのごとく話しなさる。
「あんたはそれで害がないと思ておいでるんやろ。そうすると私は組合長やから帰ってみんなに話しするのにこうこうこうやったと言うだけではあかん」
「まことにすまぬがあなたの名前で公文書で、『私が永久に保証します』と書いてくれ!」
そしたら黙っておいでるのよ。
「だまっとったら意見の交換にならんやろうが。ものゆわんかい!」
まぁしばらくシーンとしておったでよ。
それで終わって一番最初にきたのが市長のムカイさんやった。
「楠崎さんあがいなことゆうたら話が前にすすみませんで」
「ほいなら、市長と市会議員は一人ひとり、保証するという公文書をだしてくださいよ」
「そがなことはおいきらん」
「それならやめるといいなはれや」


楠崎さんは、30年近く肱川流域の水質測定を続けてきた。その蓄積は、体に貯め込んだ肱川の変化だけではなく、数値という説得力をもつ発言となる。その数字はウソをつかない。

いいかげんなことでボクはものいいよらんで。基礎知識をもっていいよるんやから。ダムの水質の協議会では、基礎資料にもとずいて私の知っておることをお尋ねしますので所長さん!はっきりと答えてくださいよ。
ダムというのは、今まで作ってええというのはなかった
そうでしょうが。黒部渓谷でもあないゆうてつくらなさったが、住民が反対、漁民が反対、がいな被害がでたいな。
国が何百億の補償をしなはったかしらんが、それと同じになるんよ。じゃけんダムじゃとゆうのは最後の手段。
この話しが始まって、パンフレットを出しなさって、国土交通省は、30年代の水に戻すと声明しとなさる。30年代の水に戻りましたと納得できなんだら、私たちは同意しません。それが出来ないなら漁協はダムには反対します。
いかなる手段をつこうても反対しますよ。
 
 
国交省の職員は、ある年限で移動していく。あるものは、楠崎さんの養殖場を訪ね、話しこんでいく。川を分かろうとする人もいることはいる。しかし、転勤で住民と国交省の間はつながない。
 
 
田舎にきたらここの住人になりなはらんと。10年はおって毎日、川の観察をしなさい。私もやりよるんやからあんたもやれんことはない
「それはあんた私は 移動せないかん」
移動せんといいなはれ。しばらく肱川で生活をして観察をするといいなはれ
「いや私は官僚だ」
アータ、官僚官僚と偉そうなことゆうてもわかったことは何一つない。あんたら机の上で書いた数字をまともに思うて。全部違うじゃないか。あれはやったら被害はでるとみんなゆうのに。それでもやったらすぐ出たやないか
ボクは厳しいことゆうから大洲の警察の刑事が
「あんた殺されるぜ」とゆうた。
おれなんか殺したってなんちゃならんゆうんや。それで殺されたったらしかたない。それでも後継者はできるもんよ。心配せいでも。

2008年11月5日水曜日

「肱川」一部紹介①

「肱川」を本にします。
そのうちに一部を紹介します。

まず昭和三〇年代の肱川に戻してくれ

楠崎 隆教
肱川漁業共同組合 代表理事


川漁師・楠崎隆教

昭和16年から漁師やったんやかろのう。そのころは河辺川には尺鮎がおった。ボクは他の人の倍はとりよった。何とるんでも大掛かりなことをやりよった。カニをとるんでも一人が(仕掛けを)3張りくらいしかやりよらなんだのをボクは35張りはりよったんやから。水に張ると一睡もできへん。
昭和25年頃よ。あのころはマツダの軽三輪のトラックやったけどな一晩でヤマほど積んで帰ったことあるよ。

鮎が売れんようになったのは二〇年まえになるぜ。その頃から魚はおるのに漁師は減ってしもうたんよ。ダムが出来て水質が悪くなって魚の質が落ちた。というんやけどあの人ら(国交省の役人)は納得せんのよ。
「根拠がない」とゆうてがらな。それはそこの住民が実感して体験しとることやから。それをわかろうせん。

今は専業者はおれへん。兼業だけや。この八多喜地区だけでも7人、8人おった。漁だけで生活ができよった。
肱川全体で100人からおった。野村にもおったから全体では200人はおったでしょうな。取れたら旅館でなんぼでもこうてくれたんやから。今はそこの観光協会も肱川の鯉ひとつつ買わへんのやから。それは臭うて買わんと思うよ。

組合でも改善する対策をたてようというけどあれだけのダムが出来て水質が悪化すると無理よ。肱川くらいの組合がやることはわかっとる。それは国にこうせんとダムをやらさんとゆうのがおららの義務よ。それに賛成してくれる子が出だした。だから今は(ダム建設反対を)議案にいれよる。それまでは緊急動議でだしとった。

楠崎さんの漁師生活は七〇年近い。肱川水系のことならどんな研究者、専門家と話しても負けはしない。その根っこには川と共生し、そこから糧を得てきた人間の蓄積がある。研究者が、国交省の官僚が、数字だけで言うのではなく、肌から吸収したものにしか分からない凄みがある。
 
「官僚は川のことを何一つしらん」
ダムが出来たのは(昭和)34年、ダムが出来てから20年くらいはそんなに悪いとは思わなんだ。20年くらいたったら水質が悪うなった。青海苔のできが悪うなった。20年もたつとダムから悪いものが流れてくる。今、鹿野川の表面には魚はおるけど2メーター下がったらおらん。
 
(肱川漁協の)漁獲高2400トンのうち鮎がほとんど。でも売れん。上流でも鮎の性質が変った。コケを食べるのではなくユスリカの幼虫を食べるようになった。鮎の腹が赤い。ユスリカの幼虫のせいで肉質が変った。川にコケがはえとらん。ユスリカはどぶ川ならなんぼでも発生するけんのう。鮎はとってもすぐ腐る。一時間もたったらもう食べられん。すぐに氷を入れないと。

長年、肱川から生活の糧を得てきた楠崎さんは、その変貌を嘆く。豊穣な川が、どんどんとやせ細っていく。現在、楠崎さん自身、ウナギの養殖を主に経営している。川の恵みだけでは生活ができなくなった。