2009年1月27日火曜日

ロシナンテより

ロシナンテ社の前代表Xさんは、1990年夏、突然いなくなりました。まぁ失踪したわけです。その後、残った働き手が何とか活動を存続させてきました。
そして私(四方)が代表に就任して順次他の社員の皆さんは、新たな仕事に代っていきました。Xさんが、ロシナンテ社のやり繰りに苦労していたのはよくわかります。その彼の責任放棄をいまさら追及する気はサラサラ私にはありません(Xさんは一年後には自宅にもどり市民生活に復帰しています)。
 
大切なのは、ロシナンテ社が各地の住民運動・市民運動のネットワーカーとして曲がりなりにも平場の声をつないできた事実です。
 ここ数年取り上げてきました汐見文隆さんの低周波音被害は、少しずつですが、マスコミも取り上げるようになってきました。先日も朝日新聞が、大きく取り上げたお蔭で、ロシナンテ社へも日経やフジ、日本テレビなどから問い合わせがありました(テレビ関係者の協力するのは当たり前みたいなインギン無礼さにはブチッときましたが・・・)。
 とにかく平場からの発信のお手伝いは出来ているのではないでしょうか。
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1984年の夏、私は、ロシナンテ社で仕事をはじめました。洛北・下鴨神社の裏、安学生アパートの一室が仕事場でした。それから二十五年が過ぎました。
この『月刊地域闘争』から『月刊むすぶ~自治・ひと・くらし~』は、著名な書き手とかジャーナリストがいて・・・というわけではありません。京都の街で実に泥臭く生き抜いてきました。関西圏や首都圏の読者へは集金を掛けます。毎年毎年回ります。これは恐い!友達がいなくなる。そんな場がロシナンテ社です。
 
ただこういう営みは、私だからできたのだと思います。現在、私の給料は、月十万四千円にしています。社会保険等を支払うと手取りは、八万円後半。会社に棲みついているので、さらにここから一万三千円家賃として戻します。前期の損益計算書上には、広告代として計上されています。そして二万円定期預金に回します。何年か前、百二十万円くらい貯金できたのですが、どうしても厳しい状態でしたから会社に入れました。現在、ようやく定期預金が十二万円になりました。私個人は、食費と銭湯などで月四万円は必要です。だからこれで十分くらしていけます。新聞は、資料代として会社負担にさせていただいています。その他昨年は原付バイクを購入させてもらいました。中古で十万円のホンダのカブです。さすがに自転車でどこへもというのがキツクなりました。こんな感じでやりくりしています。
 ただこれでは、このロシナンテ社の根っこを次の世代につないでいけません。正直、私と同じことは誰も出来ない。そこで現在すすめているのが、単行本を出す。できる限り普通の出版事業ができる会社にすることです。
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ロシナンテ社の貸借対照表と損益計算書等を掲載させていただきます。
先代が全てを放り出して混乱したため、まだまだよくわからないお金がありますが、来月からすこしずつ少しずつ説明していきます。詳しくはそちらをご覧ください。
(しかた さとし)

2008年12月26日金曜日

2008年が終わります。

今年も「月刊むすぶ」、お力添えありがとうございます。
 
1970年からロシナンテ社がこつこつとつないできたネットはまだまだ健在です。もちろん、不十分な点もたくさんあります。それでもインターネットにはない良さを持ちつつ生き抜いています。まだまだ前進です。

①「月刊むすぶ」の定期購読の輪にご参加ください。
年間購読代は8400円。19年間据え置きです。
入金先 郵便振替 4008047
    三菱東京UFJ銀行出町支店(普)4008047
    名義 ロシナンテ社
②使い損じの葉書などありましたら是非、お分けください。
③こんな発信をしたい。是非、お声かけください。スペースをとります。

 新聞やテレビを見ていると不況!不況!と騒いでいます。派遣労働の人たちがドンドン首切りです。しかしこれまで大もうけしてきたはずの大企業がその内部留保のお金を労働者に回すという話はトンと報道していません。企業防衛が第一なのでしょうか?マスコミもやれハローワークに麻生さんが出かけたと映像を垂れ流しています。何かおかしいぞ!
 なんでもいいです。是非、皆さんのご意見、お寄せください。よろしくお願いします。

連絡先 〒605-0974
     京都市東山区泉涌寺五葉ノ辻町28
     電話・FAX 075(533)7062
     E-mail musub@big.or.jp
             ロシナンテ社・四方哲


2009年が皆様にとってよい年でありますように。

2008年12月24日水曜日

あとがき

 今年は平成二〇年だ・・。日頃西暦中心の生活をしているのでもう一つピンとこない。
クリスチャンではないが2008年の方が便利だ
▼ロシナンテ社、何とか2008年(平成二〇年)をやり過ごした。生き抜いたゾ!ロシナンテ社は三十九年目だゾ。ただただ合掌
▼最近ひざが痛む。いよいよ歳か。さみしい。先月、知り合いの店で久しぶりに奮発して登山靴を買ったばかりなのに・・・・
▼比良山に登るぞ。上手くすれば日本海が見えるはずだ。高校の地学実習で登って以来だ。山登りはいい
▼最近読んだ漫画は北アルプスの山岳救助がテーマだった。救助者が重傷の遭難者を担いで岩肌を登る。担ぎあげても彼の息は既に絶えている。その遺体に主人公は「ご苦労さん」と微笑む
▼体育は嫌いだった。でも長距離だけは嫌いじゃなかった。紫野高校のグランドから鷹ヶ峰を光悦寺、然林房と走るコースが冬の定番だった。雪の降る中、鷹ヶ峰を走った。まとわりつく雪。吐くと白くなる息づかい。あれはサイコーだった。どうなるか分からないが、来年もとにかく前進しようと思う。 (四方)

2008年12月10日水曜日

ロシナンテ日記

 2008年も残りわずかになりました。
 今年1年、お付き合いいただき感謝です。
ようやく冬の寒さがやってきました。ロシナンテ社、39回目の越冬です。
 さて愛媛県・肱川の清流を取り戻す取り組みを「肱川〜清流の復活を求めて〜」と単行本発行を予定していましたが、編者の都合で延期となりました。あらためてご案内させていただきます。
 その肱川が流れる大洲市へ出かけた際、川漁師の楠崎さんは、「鵜飼を観に来た観光客が、川が臭いと嫌がる」と話してくれました。それだけダムの環境に及ぼす影響は大きいのでしょうね。先日も京都大学で「川の全国シンポジウム」が開催され大勢の人が集まっていました。元国交省の河川事務所長の宮本さんや大熊孝さんなどが発言していました。
 単行本「川辺の民主主義」を販売していて分かってきたのは、ダム問題が社会全体の課題としてまだまだ身近なものではない。徳島市の吉野川可動堰問題では、住民自治・参加まで引き寄せて訴えたことが住民投票を実現させ、徳島市を輝かせたと思います。しかし現状は、一部マスコミや政治家のパフォーマンスの場にダム問題が使われているようにも、私には見えます。例えば、横須賀のアメリカ原子力空母母港化に県知事が反対するとは思えない。橋下大阪府知事なら万歳三唱して空母を受け入れるんじゃなかろうか。ダム問題はそれだけ情報流通産業のマスコミも報道しやすいのではなかろうか。
 大切なのは、徳島の住民投票という民主主義の成果をドンドン活用することではないかと思います。暴漢に襲われ重傷を負わされても産廃処分場を拒否した前・御嵩町長・柳川さんが「情報公開制度を整備したが、町民はほとんど使わない」とこぼしていました。折角、手にした道具は使わないと錆付いちゃう。
 川のシンポで司会を担当していたM市会議員(決して京都市の議員さんではありません)は、平和問題、人権問題もなんでも取り組んでいる。エライ人だと尊敬します。そのスタンスが素敵だ。同様に北摂でダム問題に取り組む高校教師・Eさん。彼も幅広く活動している。大病をしたという。無理せずボチボチと頑張ってください。
 もう一月で今年も終わり。ロシナンテ社、まだまだ前進です。今後ともよろしくお付き合いくださいませ。

2008年11月18日火曜日

おことわり

今月末発行予定でした「肱川」は、編者の都合で来年春の発行となりました。
大幅な予定の変更、お許しください。

さて肱川漁協の楠崎さんのお話を最後まで読みたいかたは、是非、本が出来上がったら買ってください。よろしくお願いします。



京都の街は晩秋から冬に向かっています。紅葉の綺麗な頃になりました。是非、お出かけください。

2008年11月10日月曜日

「肱川」一部紹介②

大洲で国交省が来て委員会をひらいた。市長も市会議員も来よった。その時の議長が愛大の先生やった。ほんに立て板にみずのごとく話しなさる。
「あんたはそれで害がないと思ておいでるんやろ。そうすると私は組合長やから帰ってみんなに話しするのにこうこうこうやったと言うだけではあかん」
「まことにすまぬがあなたの名前で公文書で、『私が永久に保証します』と書いてくれ!」
そしたら黙っておいでるのよ。
「だまっとったら意見の交換にならんやろうが。ものゆわんかい!」
まぁしばらくシーンとしておったでよ。
それで終わって一番最初にきたのが市長のムカイさんやった。
「楠崎さんあがいなことゆうたら話が前にすすみませんで」
「ほいなら、市長と市会議員は一人ひとり、保証するという公文書をだしてくださいよ」
「そがなことはおいきらん」
「それならやめるといいなはれや」


楠崎さんは、30年近く肱川流域の水質測定を続けてきた。その蓄積は、体に貯め込んだ肱川の変化だけではなく、数値という説得力をもつ発言となる。その数字はウソをつかない。

いいかげんなことでボクはものいいよらんで。基礎知識をもっていいよるんやから。ダムの水質の協議会では、基礎資料にもとずいて私の知っておることをお尋ねしますので所長さん!はっきりと答えてくださいよ。
ダムというのは、今まで作ってええというのはなかった
そうでしょうが。黒部渓谷でもあないゆうてつくらなさったが、住民が反対、漁民が反対、がいな被害がでたいな。
国が何百億の補償をしなはったかしらんが、それと同じになるんよ。じゃけんダムじゃとゆうのは最後の手段。
この話しが始まって、パンフレットを出しなさって、国土交通省は、30年代の水に戻すと声明しとなさる。30年代の水に戻りましたと納得できなんだら、私たちは同意しません。それが出来ないなら漁協はダムには反対します。
いかなる手段をつこうても反対しますよ。
 
 
国交省の職員は、ある年限で移動していく。あるものは、楠崎さんの養殖場を訪ね、話しこんでいく。川を分かろうとする人もいることはいる。しかし、転勤で住民と国交省の間はつながない。
 
 
田舎にきたらここの住人になりなはらんと。10年はおって毎日、川の観察をしなさい。私もやりよるんやからあんたもやれんことはない
「それはあんた私は 移動せないかん」
移動せんといいなはれ。しばらく肱川で生活をして観察をするといいなはれ
「いや私は官僚だ」
アータ、官僚官僚と偉そうなことゆうてもわかったことは何一つない。あんたら机の上で書いた数字をまともに思うて。全部違うじゃないか。あれはやったら被害はでるとみんなゆうのに。それでもやったらすぐ出たやないか
ボクは厳しいことゆうから大洲の警察の刑事が
「あんた殺されるぜ」とゆうた。
おれなんか殺したってなんちゃならんゆうんや。それで殺されたったらしかたない。それでも後継者はできるもんよ。心配せいでも。

2008年11月5日水曜日

「肱川」一部紹介①

「肱川」を本にします。
そのうちに一部を紹介します。

まず昭和三〇年代の肱川に戻してくれ

楠崎 隆教
肱川漁業共同組合 代表理事


川漁師・楠崎隆教

昭和16年から漁師やったんやかろのう。そのころは河辺川には尺鮎がおった。ボクは他の人の倍はとりよった。何とるんでも大掛かりなことをやりよった。カニをとるんでも一人が(仕掛けを)3張りくらいしかやりよらなんだのをボクは35張りはりよったんやから。水に張ると一睡もできへん。
昭和25年頃よ。あのころはマツダの軽三輪のトラックやったけどな一晩でヤマほど積んで帰ったことあるよ。

鮎が売れんようになったのは二〇年まえになるぜ。その頃から魚はおるのに漁師は減ってしもうたんよ。ダムが出来て水質が悪くなって魚の質が落ちた。というんやけどあの人ら(国交省の役人)は納得せんのよ。
「根拠がない」とゆうてがらな。それはそこの住民が実感して体験しとることやから。それをわかろうせん。

今は専業者はおれへん。兼業だけや。この八多喜地区だけでも7人、8人おった。漁だけで生活ができよった。
肱川全体で100人からおった。野村にもおったから全体では200人はおったでしょうな。取れたら旅館でなんぼでもこうてくれたんやから。今はそこの観光協会も肱川の鯉ひとつつ買わへんのやから。それは臭うて買わんと思うよ。

組合でも改善する対策をたてようというけどあれだけのダムが出来て水質が悪化すると無理よ。肱川くらいの組合がやることはわかっとる。それは国にこうせんとダムをやらさんとゆうのがおららの義務よ。それに賛成してくれる子が出だした。だから今は(ダム建設反対を)議案にいれよる。それまでは緊急動議でだしとった。

楠崎さんの漁師生活は七〇年近い。肱川水系のことならどんな研究者、専門家と話しても負けはしない。その根っこには川と共生し、そこから糧を得てきた人間の蓄積がある。研究者が、国交省の官僚が、数字だけで言うのではなく、肌から吸収したものにしか分からない凄みがある。
 
「官僚は川のことを何一つしらん」
ダムが出来たのは(昭和)34年、ダムが出来てから20年くらいはそんなに悪いとは思わなんだ。20年くらいたったら水質が悪うなった。青海苔のできが悪うなった。20年もたつとダムから悪いものが流れてくる。今、鹿野川の表面には魚はおるけど2メーター下がったらおらん。
 
(肱川漁協の)漁獲高2400トンのうち鮎がほとんど。でも売れん。上流でも鮎の性質が変った。コケを食べるのではなくユスリカの幼虫を食べるようになった。鮎の腹が赤い。ユスリカの幼虫のせいで肉質が変った。川にコケがはえとらん。ユスリカはどぶ川ならなんぼでも発生するけんのう。鮎はとってもすぐ腐る。一時間もたったらもう食べられん。すぐに氷を入れないと。

長年、肱川から生活の糧を得てきた楠崎さんは、その変貌を嘆く。豊穣な川が、どんどんとやせ細っていく。現在、楠崎さん自身、ウナギの養殖を主に経営している。川の恵みだけでは生活ができなくなった。