2008年11月5日水曜日

「肱川」一部紹介①

「肱川」を本にします。
そのうちに一部を紹介します。

まず昭和三〇年代の肱川に戻してくれ

楠崎 隆教
肱川漁業共同組合 代表理事


川漁師・楠崎隆教

昭和16年から漁師やったんやかろのう。そのころは河辺川には尺鮎がおった。ボクは他の人の倍はとりよった。何とるんでも大掛かりなことをやりよった。カニをとるんでも一人が(仕掛けを)3張りくらいしかやりよらなんだのをボクは35張りはりよったんやから。水に張ると一睡もできへん。
昭和25年頃よ。あのころはマツダの軽三輪のトラックやったけどな一晩でヤマほど積んで帰ったことあるよ。

鮎が売れんようになったのは二〇年まえになるぜ。その頃から魚はおるのに漁師は減ってしもうたんよ。ダムが出来て水質が悪くなって魚の質が落ちた。というんやけどあの人ら(国交省の役人)は納得せんのよ。
「根拠がない」とゆうてがらな。それはそこの住民が実感して体験しとることやから。それをわかろうせん。

今は専業者はおれへん。兼業だけや。この八多喜地区だけでも7人、8人おった。漁だけで生活ができよった。
肱川全体で100人からおった。野村にもおったから全体では200人はおったでしょうな。取れたら旅館でなんぼでもこうてくれたんやから。今はそこの観光協会も肱川の鯉ひとつつ買わへんのやから。それは臭うて買わんと思うよ。

組合でも改善する対策をたてようというけどあれだけのダムが出来て水質が悪化すると無理よ。肱川くらいの組合がやることはわかっとる。それは国にこうせんとダムをやらさんとゆうのがおららの義務よ。それに賛成してくれる子が出だした。だから今は(ダム建設反対を)議案にいれよる。それまでは緊急動議でだしとった。

楠崎さんの漁師生活は七〇年近い。肱川水系のことならどんな研究者、専門家と話しても負けはしない。その根っこには川と共生し、そこから糧を得てきた人間の蓄積がある。研究者が、国交省の官僚が、数字だけで言うのではなく、肌から吸収したものにしか分からない凄みがある。
 
「官僚は川のことを何一つしらん」
ダムが出来たのは(昭和)34年、ダムが出来てから20年くらいはそんなに悪いとは思わなんだ。20年くらいたったら水質が悪うなった。青海苔のできが悪うなった。20年もたつとダムから悪いものが流れてくる。今、鹿野川の表面には魚はおるけど2メーター下がったらおらん。
 
(肱川漁協の)漁獲高2400トンのうち鮎がほとんど。でも売れん。上流でも鮎の性質が変った。コケを食べるのではなくユスリカの幼虫を食べるようになった。鮎の腹が赤い。ユスリカの幼虫のせいで肉質が変った。川にコケがはえとらん。ユスリカはどぶ川ならなんぼでも発生するけんのう。鮎はとってもすぐ腐る。一時間もたったらもう食べられん。すぐに氷を入れないと。

長年、肱川から生活の糧を得てきた楠崎さんは、その変貌を嘆く。豊穣な川が、どんどんとやせ細っていく。現在、楠崎さん自身、ウナギの養殖を主に経営している。川の恵みだけでは生活ができなくなった。

0 件のコメント:

コメントを投稿