2008年5月29日木曜日

問わず語り① その3

 先代がいなくなった時、社員がボクを含めて6人いた。いろいろとやり取りがあるのだが、その辺は省略する。とにかく98年までには、転職したりしてボク一人になる。03年ころまでは、バイトやいろんな形態で手伝ってもらっていた。何とかボク以外にもロシナンテ社の仕事の主体を内側に得たいという大それた野望もあった。
 しかしそれは不可能だった。
 ①まず十分な給料が保障できない。
 ②そして(最近、ようやく気づいたのだが・・・)ボク自身の性格が十分にムズカシイものである。
 ①給料が出せないというのは犯罪だと思う。志では人間生きていけない。
 ②どうしても仕事をこなす速度が違ってくる。少なくともボクは、この仕事においては早い。だからついイライラしてしまう。
 それで結局、現在、ほぼ一人で仕事をしている。経済的には大変だが、一人は、一面、ものすごく気楽で楽だ。人様の面倒をみる器量はボクにはないと自覚した。

 1994年頃から、いろんな集会やイベントを追っかけて本の行商を繰り返してきた。電話営業の限界を感じていたからだ。最初の3年間で日本列島を一回りできた。北は稚内。南は西表島。とにかく歩いた。少なくとも98年頃までは年間百十日は関西圏の外に出かけていた。これに京阪神間の集会販売が加わるのだから一年の半分近くは、何処かの集会に出かけるか、街角にいたことになる。
 この24年間で一番、楽しかったのはこの行商だった。

 夜行バスならば、関西から北は仙台。南は鹿児島まで出ている。両方、約十二時間。東京は七時間くらい。
 仙台の駅前と鹿児島駅前は、そんなに変わらない。鹿児島には、南国風の樹木と明治維新の偉い人の銅像らしきものがあるくらい。それだけ駅前は画一化されている。とにかく朝早く目的地に到着する。これがつらい。しかし、違う土地に来たのだなと感じられるとそれなりの緊張と一種の開放感のようなものが体を走る。ボク自身、それなりにストイックなところがあり、ほとんど観光スポットへでかけることはない。仕事にきたのだから、読者のお金で遊んではいけないと考えてしまう。十年以上前、函館山に登ったきりだ。

 集会に参加して本を売る。それも『月刊むすぶ』を売るわけだ。その頃は、この雑誌がそれなりに売れた。特に行商の初期はこの雑誌だけを売っていた。一日で百冊~百五十冊以上、売れることもあった。
 「この雑誌は各地の市民、住民運動の交流誌として1970年から出しています。書き手、話し手は生活の中で運動を取り組んでいる人にレポートしてもらっています」
 本を並べている売り場に近づいてくる人がある。この人は記者だなと思うと
 「プロの書き手ではなく現場、平場でいろんな取り組みをしている人に書いてもらっています」と叫ぶ。とにかく必死!オーラが出ていたと思う。
 そうこうするうちに『月刊むすぶ』だけでは、売上を伸ばせなくなってきた。そこで他社の本を売るようになった。
(つづく)

2008年5月26日月曜日

問わず語り① その2

 京都府北部で中学校まで過ごしたボクは、当然の様に同和教育というものを受けている。被差別部落民を差別してきた歴史が日本にはある。そしてその差別を無くさなくてはいけない。そのために子供の時から教育の場で、差別と闘う力を身につけなくてはいけない。そんな趣旨だったと思う。中学3年間、週3時間はあったのではなかろうか。
 この同和教育は間違っていないと思う。部落差別は未だに存在する。そして外国人、在日朝鮮韓国人、中国人などへの偏見・差別は、形を変えて未だに続いている。そしてそれは、より露骨に、陰湿になっていると感じる。

 その後、同和教育はいろんな動きの中、低調になっていく。今思うに社会科の時間に、日本の戦争責任をならった記憶はない。先生たちは、「人権!差別はいけない」というが、決して天皇の戦争責任までは話してくれなかった。多分、教組の方針もあったのだと思う。その方針に戦争責任を教えるというのがなかったのだろう。
 つまり学校なんてのは、所詮、人間をどのように管理しやすく育てるかというシステムの一つだから、組織的な動きがないと何も変わらない、変えられないということなのかも知れない。組合が同和教育を方針として推進したから同和教育が盛り上がったというだけなんだろうか。もちろん差別の不条理さに立ち上がった人たちの懸命な努力は尊い。しかし、たえず揺れ動く教師集団もだらしないと思う。
 教師も普通の人間。その普通さをどこまで自覚し、はじけられるか。この仕事を通して教師というものの現実も理解できた。自分自身が求めないと何も始まらない。

 しかし学校全体で差別を考えよう!人権!という風潮の中で勉強ができたのは幸運だったと思う。勉強、勉強、競争、競争よりうんと面白かった。
 そんなバックボーンがあったからだろうか、『障害者解放』という響きには、引力があった。そして彼らの生き様はとにかく魅惑的だった。上田で4年半過ごすことになる。(その前、1年間、松本で過ごしたから計6年近く信州で生活をしていた。)

 1990年夏。先代代表が突然、いなくなった。失踪したわけだ。全てを放り投げて逃げた。それはそれで構わない。このお金にならない仕事を続けることの大変さは、先代とボクにしか分からないと思う。彼を憎いとか許せないとか、正直、ほとんど感じない。むしろロシナンテ社の割と近いところにいて、いらぬ噂をしていた人たちをボクは嫌う。決して責任者に逃げられた当事者に寄り添わず、棒で突いて悦に入っている賢そうな人たちを好きになれない。中途半端に近しい人ほど、無責任になれるのだなぁと実感できる。人間、付き合うならとことんやり抜くか、適度の距離感で眺めているのがいい。しかし「他人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだ。確かに他者のゴシップは中々、ワクワクするものだ。人の悪口ほど楽しいものはない。

2008年5月23日金曜日

問わず語り① その1

 長年、お世話になっている某大学のKさんに先日、お礼の意味でお茶を贈った。
今日、その返礼が電子メールで届いた。
(電子メールというのが今風だ!)その返事を読んでふと自分自身のことを語りたくなった。

 この場(ロシナンテ社)は、こんどの夏で38周年を迎える。とにかく生き抜いてきたようだ。そしてボクはこの場で24年という時間を過ごした。
 1984年夏から、仕事を始めた。最初、主に集金と電話営業を指示された。
阪急や京阪を使って関西の読者を訪ねてお金をいただく。おかげで阪急と京阪の全ての駅を知っている。朝、9時前に事務所を出る(当時は下鴨神社の裏にあった)。京阪沿線は主に枚方。阪急沿線は高槻、茨木、吹田、豊中、箕面の小中学校の先生たちを回って5冊単位で本を買ってもらう。押売りをするわけだ。定期購読のお金も頂戴する。関西、特に大阪府下は同和教育が盛んで、同担の教師が各校にいる。その先生がターゲット。障害者問題や日の丸・君が代、教育問題のテーマの号なら何とか買ってもらえる。
 学校は朝は九時半ころから20分の休み時間がある。ここで1校。そして12時半ころから給食。中学校なら職員室に結構先生がいる。この時間帯に2校。さして3時半から後2校。一日で5校は回れる。そんな仕事をしていた。
 そして事務所では電話で営業。原発問題ならば各地に反原発運動を担っているグループや労働組合に電話1本でお願いして回る。月に1500冊から2000冊近くは売り上げていた。今はそんな営業は中々できない。その中でいろんなフィールドにいろんな運動をしている人が頑張っていることを肌で感じ取ることが出来たと思う。これは財産になった。正直、内向的な性格だと自分自身では思っている。基本的に一人でいるのが好きだ。そんな人間が一日、受話器にしがみついている。
 「ロシナンテ社の四方と申します。今度、月刊地域闘争の新しい号で●●の特集を取り組みました。(瞬間、間を置く)5冊位、お世話いただけませんでしょうか?」これはとりあえずロシナンテ社とお付き合いのある方へのしゃべり方。
 全く付き合いのない方には、「ロシナンテ社は、各地の市民、住民運動の交流誌・月刊地域闘争を出しています」という説明から入る。
 しかし、なぜ、この仕事をボク自身が選んだのだろう。ロシナンテ社へ来る前、信州・上田にいた。学生だった。いろいろとバイトをしていた。2年目からはほとんど学校へは行かなかった。とにかく講義が面白くなかった。一応、機械工学が専攻。しかしこれが社会学や哲学、経済学が専攻だったとしても学校へは行かなかったと確信できる。とにかく学校という空間に疲れていた。
 ―先日、大阪の専門学校の公開講座を聞きに出かけた。死刑制度を描いた映画の監督が話しをするという。しかし映画の作り方が中心で、何故、死刑というテーマを選らんだのか。その点が見えてこなかった。だから実に窮屈な時間だった。どうも教室が嫌いらしい。
 だからと言って学校を辞めて労働者になる気はなく、いろんなバイトをしていた。あの頃の方が今よりお金はあったと思う。とにかく学生という身分がありがたかった。
 そんな中、必然なのだと思う。いろんな市民運動と関わっていった。大体、社会運動に学生が参加するのが、珍しく、既に学生運動は、大都市の一部の大学の伝統芸能になりつつあった頃。それ故、社会人の方々にそれなりに可愛がってもらえた。いろんなつながりを作ることができたのも事実だった。
 信州で一組の障害者+健全者の家族に出会った。彼が健全者で彼女が障害者。そして2歳くらいの子供。その上、彼女は妊娠していた。脳性マヒの障害者が妊娠して子供を産むということが、その時、不思議だった。正直、その意味が分からなかった。いろんな事実の積み重ねの中で彼女は、妊娠し、子供を得たと思う。
 しかし、彼らの生活は決して楽には見えなかった。というより貧乏だった。市街地からはずれた市営住宅。6畳・4畳半・トイレと剥き出しの壁の風呂。そんな狭い空間に家族4人。そして絶えず学生を中心とした介護人が出入りする生活している。収入は生活保護と彼のわずかなアルバイト収入。彼がいない間を介護人が子供と彼女の面倒をみる。そういう生活の空間のほんの片隅にいさせてもらった。
 そこに障害者解放運動というのがあった。それまで障害者は、福祉の対象。世の中の『善意』で生かされている存在だと社会は見ていた、と思う。
 「障害者も人間として当り前に生きていきたい」
 これは確かに重たい響きだった。彼らの生き様にボクは引き寄せられていった。

2008年5月12日月曜日

イベント紹介

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     野田知佑ハモニカライブ 9 ~ のんびりいこか、吉野川 ~ 
                     2008,5,31 in 上野
           http://www.axera.co.jp/uenoda/
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 吉野川・東京の会では、徳島県吉野川の自然を守るための支援活動を行っています。
 アウトドア作家であり、日本・世界の川を駆けめぐるカヌーイストでもある野田知佑さんの協力を得て、吉野川の美しさ、自然を守ることの大切さ、川で遊ぶことの楽しさを、一人でも多くの方にお伝えするために、野田知佑ハモニカライブを毎年開催しています。
 作家の夢枕獏さんからは、最新作「キマイラ」の裏話や、獏さんの秘めたおもしろおかしい世界が繰り広げられることでしょう。
 mont-bel創業者である辰野勇さんからは、静かに響きわたる横笛の音が。
 おやじたちの魅力、吉野川の魅力に、たっぷりと浸ってください。皆様のご参加をお待ちしております。
☆ このイベントの収益は、吉野川の自然を守る活動に使われます ☆
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 日 時:2008年5月31日(土)
     (開場:13:30 開演:14:00~ 終了19:00(予定))
 会 場:上野公園水上音楽堂
     (上野公園 不忍池の南側、雨天開催)
 参加者:600名(全自由席)
 参加費:1,800円(中学生以下無料)<割引 1,500円>
     イベントチラシ、Webページをプリントしてご持参の方は割引!
     <当日券のみ>参加費は入場の際に入り口でお支払いください。
●出演
 野田知佑 作家・カヌーイスト 
 辰野 勇 冒険家・モンベル創業者
 夢枕 獏 作家・釣り人
●時間割
  1限目 川の楽団演奏会
      野田校長、辰野教頭のれんしゅう
      ハルユキ、PTAの演奏
  2限目 野田校長の川の学校のおはなし
  3限目 夢枕獏先生の「夢のネタばなし」
  4限目 ハモニカライブ
       野田校長のハモニカ、辰野教頭の横笛
  ホームルーム チャリティ・オークション
  課外授業 野田校長・夢枕獏先生のサイン会

●会場では、野田知佑ハモニカライブオリジナルTシャツや、出演者の書籍
 などの販売。
 徳島名物のフィッシュカツやジャコ天、お飲物等を用意しています。
 プログラムの最後には、恒例のオークションも実施。お楽しみに!
●交通  東京メトロ千代田線湯島駅・銀座線上野広小路駅 徒歩3分
     JR御徒町駅・上野駅 徒歩6分
     都営大江戸線上野御徒町駅 徒歩4分
●主 催 吉野川・東京の会
●イベントHP http://www.axera.co.jp/uenoda/

2008年5月8日木曜日

駅についた。

 駅についた。
 夜、8時。今晩はどこで寝るか。
 この街には泊めてもらえる程、親しい知り合いはいない。公衆電話を探す。
 携帯の普及ですっかり少なくなったが流石に駅にはある。電話帳をめくる。
 サウナはあるな。最悪、サウナ。いやまてよと思って駅の外を眺める。季節は初冬。暗くなっている。
 結構、賑やか街だ!きっとネットカフェもあるだろう。
 しかし行商も4日目。それなりにきれいなところで寝たい。昨晩は夜行バス。
 おっとあったあった。1泊2800円。早速電話。
 駅から歩いてすぐ。狭い部屋。しかし風呂は共同だが広々としている。手足を伸ばせるのが嬉しい。
 何か夕食をともう一度、街へ。
 スーパーが駅裏にある。閉店直前の安売りがある。この街でしか食べないようなものはないかと探すかよくわからない。
 200円で巻き寿司を買う。今晩はこれで我慢しておこう。
 こうして一日が終わっていく。