2008年5月23日金曜日

問わず語り① その1

 長年、お世話になっている某大学のKさんに先日、お礼の意味でお茶を贈った。
今日、その返礼が電子メールで届いた。
(電子メールというのが今風だ!)その返事を読んでふと自分自身のことを語りたくなった。

 この場(ロシナンテ社)は、こんどの夏で38周年を迎える。とにかく生き抜いてきたようだ。そしてボクはこの場で24年という時間を過ごした。
 1984年夏から、仕事を始めた。最初、主に集金と電話営業を指示された。
阪急や京阪を使って関西の読者を訪ねてお金をいただく。おかげで阪急と京阪の全ての駅を知っている。朝、9時前に事務所を出る(当時は下鴨神社の裏にあった)。京阪沿線は主に枚方。阪急沿線は高槻、茨木、吹田、豊中、箕面の小中学校の先生たちを回って5冊単位で本を買ってもらう。押売りをするわけだ。定期購読のお金も頂戴する。関西、特に大阪府下は同和教育が盛んで、同担の教師が各校にいる。その先生がターゲット。障害者問題や日の丸・君が代、教育問題のテーマの号なら何とか買ってもらえる。
 学校は朝は九時半ころから20分の休み時間がある。ここで1校。そして12時半ころから給食。中学校なら職員室に結構先生がいる。この時間帯に2校。さして3時半から後2校。一日で5校は回れる。そんな仕事をしていた。
 そして事務所では電話で営業。原発問題ならば各地に反原発運動を担っているグループや労働組合に電話1本でお願いして回る。月に1500冊から2000冊近くは売り上げていた。今はそんな営業は中々できない。その中でいろんなフィールドにいろんな運動をしている人が頑張っていることを肌で感じ取ることが出来たと思う。これは財産になった。正直、内向的な性格だと自分自身では思っている。基本的に一人でいるのが好きだ。そんな人間が一日、受話器にしがみついている。
 「ロシナンテ社の四方と申します。今度、月刊地域闘争の新しい号で●●の特集を取り組みました。(瞬間、間を置く)5冊位、お世話いただけませんでしょうか?」これはとりあえずロシナンテ社とお付き合いのある方へのしゃべり方。
 全く付き合いのない方には、「ロシナンテ社は、各地の市民、住民運動の交流誌・月刊地域闘争を出しています」という説明から入る。
 しかし、なぜ、この仕事をボク自身が選んだのだろう。ロシナンテ社へ来る前、信州・上田にいた。学生だった。いろいろとバイトをしていた。2年目からはほとんど学校へは行かなかった。とにかく講義が面白くなかった。一応、機械工学が専攻。しかしこれが社会学や哲学、経済学が専攻だったとしても学校へは行かなかったと確信できる。とにかく学校という空間に疲れていた。
 ―先日、大阪の専門学校の公開講座を聞きに出かけた。死刑制度を描いた映画の監督が話しをするという。しかし映画の作り方が中心で、何故、死刑というテーマを選らんだのか。その点が見えてこなかった。だから実に窮屈な時間だった。どうも教室が嫌いらしい。
 だからと言って学校を辞めて労働者になる気はなく、いろんなバイトをしていた。あの頃の方が今よりお金はあったと思う。とにかく学生という身分がありがたかった。
 そんな中、必然なのだと思う。いろんな市民運動と関わっていった。大体、社会運動に学生が参加するのが、珍しく、既に学生運動は、大都市の一部の大学の伝統芸能になりつつあった頃。それ故、社会人の方々にそれなりに可愛がってもらえた。いろんなつながりを作ることができたのも事実だった。
 信州で一組の障害者+健全者の家族に出会った。彼が健全者で彼女が障害者。そして2歳くらいの子供。その上、彼女は妊娠していた。脳性マヒの障害者が妊娠して子供を産むということが、その時、不思議だった。正直、その意味が分からなかった。いろんな事実の積み重ねの中で彼女は、妊娠し、子供を得たと思う。
 しかし、彼らの生活は決して楽には見えなかった。というより貧乏だった。市街地からはずれた市営住宅。6畳・4畳半・トイレと剥き出しの壁の風呂。そんな狭い空間に家族4人。そして絶えず学生を中心とした介護人が出入りする生活している。収入は生活保護と彼のわずかなアルバイト収入。彼がいない間を介護人が子供と彼女の面倒をみる。そういう生活の空間のほんの片隅にいさせてもらった。
 そこに障害者解放運動というのがあった。それまで障害者は、福祉の対象。世の中の『善意』で生かされている存在だと社会は見ていた、と思う。
 「障害者も人間として当り前に生きていきたい」
 これは確かに重たい響きだった。彼らの生き様にボクは引き寄せられていった。

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