2008年5月26日月曜日

問わず語り① その2

 京都府北部で中学校まで過ごしたボクは、当然の様に同和教育というものを受けている。被差別部落民を差別してきた歴史が日本にはある。そしてその差別を無くさなくてはいけない。そのために子供の時から教育の場で、差別と闘う力を身につけなくてはいけない。そんな趣旨だったと思う。中学3年間、週3時間はあったのではなかろうか。
 この同和教育は間違っていないと思う。部落差別は未だに存在する。そして外国人、在日朝鮮韓国人、中国人などへの偏見・差別は、形を変えて未だに続いている。そしてそれは、より露骨に、陰湿になっていると感じる。

 その後、同和教育はいろんな動きの中、低調になっていく。今思うに社会科の時間に、日本の戦争責任をならった記憶はない。先生たちは、「人権!差別はいけない」というが、決して天皇の戦争責任までは話してくれなかった。多分、教組の方針もあったのだと思う。その方針に戦争責任を教えるというのがなかったのだろう。
 つまり学校なんてのは、所詮、人間をどのように管理しやすく育てるかというシステムの一つだから、組織的な動きがないと何も変わらない、変えられないということなのかも知れない。組合が同和教育を方針として推進したから同和教育が盛り上がったというだけなんだろうか。もちろん差別の不条理さに立ち上がった人たちの懸命な努力は尊い。しかし、たえず揺れ動く教師集団もだらしないと思う。
 教師も普通の人間。その普通さをどこまで自覚し、はじけられるか。この仕事を通して教師というものの現実も理解できた。自分自身が求めないと何も始まらない。

 しかし学校全体で差別を考えよう!人権!という風潮の中で勉強ができたのは幸運だったと思う。勉強、勉強、競争、競争よりうんと面白かった。
 そんなバックボーンがあったからだろうか、『障害者解放』という響きには、引力があった。そして彼らの生き様はとにかく魅惑的だった。上田で4年半過ごすことになる。(その前、1年間、松本で過ごしたから計6年近く信州で生活をしていた。)

 1990年夏。先代代表が突然、いなくなった。失踪したわけだ。全てを放り投げて逃げた。それはそれで構わない。このお金にならない仕事を続けることの大変さは、先代とボクにしか分からないと思う。彼を憎いとか許せないとか、正直、ほとんど感じない。むしろロシナンテ社の割と近いところにいて、いらぬ噂をしていた人たちをボクは嫌う。決して責任者に逃げられた当事者に寄り添わず、棒で突いて悦に入っている賢そうな人たちを好きになれない。中途半端に近しい人ほど、無責任になれるのだなぁと実感できる。人間、付き合うならとことんやり抜くか、適度の距離感で眺めているのがいい。しかし「他人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだ。確かに他者のゴシップは中々、ワクワクするものだ。人の悪口ほど楽しいものはない。

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